「宮島の色彩とeconomy-やりくりの経済学」
民芸玩具訪ねある記 第二回
2020/6/13
1年ぶりに会う田中さんは、1年前とまったく同じ様な出で立ちで、全く変わらない髪量にもかかわらず「髪型変えたの、わかりました?」田中さんなりのユーモアである。
裏口の様な2つの出入り口があって、錆び付いた宇宙船が港で停泊している様な工房。家のてっぺんには、寂しいからとお花が植えられ華やかにしてあります。この工房に潜入するとき、まるで滅びた人類の末裔のアジトに来たような高揚感に襲われました。熱帯魚の水槽、その世話をする道具のパッケージ、埃だらけのお面たち、部屋中に貼られた一見不思議なタイル…。室内はどこか過ぎ去った色彩で溢れています。
「仕事を始めたばかりの頃は暇だったから、週刊誌を千切ってペタペタ貼っていた。今はもうできないけどね。時間があったら、この雑誌タイルを壁紙にしてもおもしろいかも。タイルと同じように、規則的に貼るのがコツなんですよ」
かつて、田中さんは胡粉と和紙を求めて大竹を訪れています。偶然にも、若かりし頃の大石さん(連載第一回参照)にも会っていたそうです。
「大竹和紙に行ったのは、卒業してすぐじゃけぇ、23歳のとき。仕事を始めてすぐじゃけぇ、もう40年前です。親戚のお兄さんが大竹で仕事をしとって、大竹和紙のことは知っていた。和紙のお面をかぶる大竹祭りも有名やった。大竹といえば胡粉と和紙。私がこまい頃はそこらへんに牡蠣の殻の山がなんぼもあったね。
大竹の胡粉は、牡蠣の殻をぼた山みたいにして自然に晒してもろくなったものを粉にしてた。でもうちが仕事を始めて20年目くらいに、需要がなくなって作るのをやめちゃったんです。そのあと、廿日市の人が殻を焼いて胡粉を作り出したんじゃが、近所の人から殻を焼く匂いが臭いと苦情が来て、本人も病気になってやめてしまった。その時点で広島の胡粉はなくなったんです。大竹の胡粉は物は良かったけど、腐る。でもお袋が『昔の張り子はこういうきな臭い、赤ちゃんのよだれみたいなにおいがしよった』と言っていて、何も知らずにずっとしよったけど、じゃあ間違うとらんと思った。この40年間で、完全にわかったのは30年目くらいよ」
田中さんの40年は、試行錯誤と創意工夫の日々。「杓子」いわゆる「しゃもじ」の有名な宮島で、木工を営む家に育ち、ひょんなことから張り子を作り始めることになります。
「親父がこの工房で木工品を作っていたんじゃが、病気で他界した。一番景気のいい大正時代は町内半分が木工の職人で、500人くらいおったんじゃが、どんどん衰退していった。玩具を収集していた親戚のおじさんも木工を作っとって、同じようなことをしとったんじゃおもしろくないと、新しいものをいろいろ作り始めた。
最初は大きなきつねの面を、何を間違えたか、樹脂でやってみようと言い出して。なんでか言うたら、親戚が当時の通産局の検査の係をしていて、工業製品のシリコンや樹脂のデータを持って帰ってきたもんだから、使ってみようと。でも高いしシンナーを使うから体に悪い。
当時宮島にも張り子というものはあったんじゃが、産業としてあったのか、祭りとして他所から来たのか、細かいことは全然わからない。それを伝統ということはできん。由来書に昔からあったと書いていたこともあったけど、ありもしないことを書いたらいかんと言われたりして感触が悪かった。おじさんが80〜90歳のおじいさんに取材したら、間違いなくあったが宮島で作っていたかはわからないと。こんなことを言うとってもしょうがないと思って、いまの由来書に書き換えた。『昔あったものを元に、新しく宮島の風土に見合った郷土玩具を作ります』とね」
張り子作りを始めてからは、使う紙や、起き上がりの中に入れる重りの素材の研究に明け暮れます。
「大竹の和紙は結構値段が高くて、クラフト紙を使って張り子を作る方法を研究した。クラフト紙はすごく強いんですよ。お米を入れてもセメントを入れてもいいんですから。それを水に浸して柔らかくして使う。うちは石膏型を使ってるから、クラフト紙くらいしっかりした固さがある方が貼りやすい。和紙だと柔らかすぎて、ずるっと取れてしまってやりにくいんです。
重りには、最初は鉛を使っていたけど、すぐ手に入らなくなった。しかも作業もしにくいから、おじさんがセメントにしてみようかって。セメントのほうが効率も起き上がりの動きも良かった。そこから型をどんどん作った。もう35年くらい。鉛の重りが入った張り子を持っている人はほんの数人だと思う」
その「最初に使っていた鉛」というのが、なんとも意外なものでした。
「原爆ドーム近くの空き地はいま公園になってね。あの当時、その空き地に多分鉛があるんじゃないかって教えてもらって行って、掘り出した水道管を曲げて運びやすい大きさにして電車で持ち帰った。電車で宮島口まで乗ってね、そこから船に乗って。
原爆ドーム近くにスラム街もあって、家が30〜40軒あった。そこが火事になって1〜2ヶ月後にほとぼりが冷めた頃入らせてもらったら、そこからも鉛の水道管が出てきた。長さは7〜8mくらいあってびっくりした。自分で切って持って帰って、たたいてペタンコにするんですよ。ななめに角をとったら紙でサンドイッチして張り子の中に入れる。最初に作った150〜200個にはみんなその鉛が入っとる。張り子の底が四角くなっているのが水道管の重りで、丸くなっているのがセメントなんです」
田中さんは、石膏の凹型を使っています。最初の一つ凸型原型を作り、それから凹型をいくつか作ってしまえば、同時に複数生産できるのです。張り子は通常、木型などの凸型に紙を貼ってつくるため、1個ずつしか作れず、さらに原型の型は使うほどに磨耗していきます。江戸時代からの木型を大切に使っていたりするのはそのためで、その原型が駄目になったら、お終いなのです。
クラフト紙、鉛、セメント、凹型、紙タイル… 田中さんがこだわって追求しているのはおそらく、和紙や胡粉や「伝統」などではなく、ある色彩を宿している物質とそのための経済学。ここでいう「経済」とは、ギリシャ語を語源にもつeconomy本来の意味である「家庭の学問」、継続的再生産のための「やりくり」なのです。
そして、色彩。田中さんの色彩は独特で、発想も他の職人さん達とは一線を画すものがあります。いまは熱帯魚、特にグッピーを飼育し、オリジナルの品種改良をしています。東京は熱帯魚で食べていけますか、と聞かれました。グッピーのオリジナル品種改良は、色彩を作りだすことであり、交配を繰り返しながら安定した継続可能な状態を見つけ出すことです。
「前にお店屋さんに行ったら女の子がちょうど鳥の張り子を見ていて、一番派手なのを買うか思ったら、一番地味なのを買っていてびっくりしたです。ワンパターンにはならんようには意識して、いろんなタイプの人が買うように考えてはいるよね。白を基調にしようとか、赤を基調にしようというところから始めて、それに合う色をどんどん乗っけて、うまくハマると気持ちがすーっとする。体で感じるものがあるかもわからない。色の使い方が受け入れられやすいのかねぇ。色のことを指摘してもらうことは多い。色の使い方が独特ってみんな言うてるね。でもやっぱり、朱色は必ず使うことは意識してるんですよ。宮島の鳥居の朱色ね。干支もの作るときは鳥居を描くようにしているから。鳥居の朱色に合う色をどんどん入れていく感じやね」
「結局、胡粉塗りが一番苦労させられた。作る人がどんどんいなくなって、塗料屋さんもやめるし。京都は人形どころだからいいものがあった。普通の地方じゃどんどんなくなっていきよるいうことですよね。一回途絶えたら復活させるのは難しい。ものづくりいうのは秘訣みたいなのがあるからね。後を継ぐ人はそれをしっかり教わっとかないけんね。それがなくなってから『さあ始めましょう』ってのは大変なこと。ものをつくる人は、文句は一人前に言いながらも、損得だけでやってない人が多いよね。
もう40年やってるけど、まだ2、3年しかやってないような気になる時もあるしね。まだ人に教えるよりも、こんなものがなかったいう未知の世界を自分で作りたいよね」
最後、そんな田中さんの声のトーンがかわり、夢の様にロマンスを語るのは、鯉のお話だったのでした。
「最近、無性に鯉が飼いたい。でも無理じゃけん、それに匹敵するグッピーを飼ってる。20年くらい経つけど、グッピーは飽きない。鯉を飼うたときの気分の良さいうかね、人間が裕福になったようなね。鯉がブームやったころに、日本で一番高い鯉は2000万円やった。鯉屋さんで2万円で飼った鯉がすごく真っ赤でね、形はちょっとニジマスみたいだったんじゃがね、すごくでかくなった。鯉屋さんが間違うて売ったんだと思ったけど、しばらく飼うたらね、目が飛び出てきた。もう出目金どころじゃない。病気じゃないけど奇形みたいだった。それで安く売ったけど、目が出てなくて普通の鯉だったら80万円くらいになったらしい。それで目が飛び出そうになったよね。広島城とか空港に池があったりするけども、そこの鯉はなんでもない普通のやね。本物の観賞用の鯉はすごい。理屈が分かったら面白いよね。品評会に出すような鯉を飼いたいね。いつかできたらと思いますけどね。そんなことを考えながら仕事してます」
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